大内宿塔のへつり20191119

■塔のへつり

塔のへつりは、福島県会津地方の南会津東部を流れる大川が形成する渓谷で、大川羽鳥県立自然公園の一角を占める。

1943年(昭和18年)、河食地形の特異例として国の天然記念物に指定されている。一帯は第三系凝灰岩凝灰角礫岩頁岩などが互い違いになっており、その軟岩部が長年の歳月による侵食風化の作用によって形成された柱状の断崖である。一帯は樹木に覆われており、新緑や紅葉の頃は一際美しい。

全長200mにわたって、大規模な奇岩が整列している。主なものには屏風岩、烏帽子岩、護摩塔岩、九輪塔岩、櫓塔岩、獅子塔岩、鷲塔岩などがあり、これらの岩を巡るように通路が彫られているが、経年による崩落等のため、吊橋を渡している舞台岩周辺以外は立ち入り禁止となっている。

« 1 2 »

■大内宿(南会津)

大内宿(おおうちじゅく[† 1])は、福島県南会津郡下郷町大字大内にある、江戸時代における会津西街道(別称:下野街道)の「半農半宿」の宿場[1]の呼称。明治期の鉄道開通に伴って宿場としての地位を失ったが、茅葺屋根の民家が街道沿いに建ち並ぶ同集落の通称、あるいは観光地名として現在も受け継がれている。1981年昭和56年)に重要伝統的建造物群保存地区として選定され、福島県を代表する観光地の1つとなっている(一部に宿泊施設復活)。

なお、当地の方言である会津弁で大内は「おおち」[2]歴史的仮名遣い:おほち/あふち)と発音・表記されるため、標準語共通語の「おおうち」との対立がある。

■那須温泉鹿の湯

栃木県那須郡那須町湯本に鎮座する温泉神社延喜式神名帳にある下野国那須郡温泉(ゆの)神社の論社として知られ、同社社伝(伝承)に基づくと那須温泉の開湯(鹿の湯)は飛鳥時代の西暦630年となる[1][2]

那須は「温泉神社(おんせんじんじゃ、ゆぜんじんじゃ)」や「湯泉神社(ゆぜんじんじゃ)」など温泉を祀る社が80社ほどある温泉信仰の極めて篤い地域であり、六国史のひとつである『日本三代実録』には従四位上勲五等下野国温泉神の記述が見られ、平安時代の西暦863年貞観5年)頃までに、日本政庁にとっての重要温泉場のひとつに位置付けられていたことが分かる[3][4]

なお、これより遡る奈良時代の西暦738年天平10年)には、従四位下の小野牛飼湯治那須湯(なすのゆ)に行くため、従者12人と都から下り駿河国を通った記録が正倉院文書の「駿河国正税帳」に見られ、奈良時代には既に中央官人が那須温泉を湯治場として認知していたことが分かる[1][5]

鎌倉時代に成立した『平家物語』では、源義経の徽下にあり屋島の戦いではその下知を受けた那須与一が敵船上に揺れる扇の的を射当てる際に「南無八幡大菩薩、別にしては我国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の温泉大明神、願わくば、あの扇の真ん中射させてたばせ給え」と祈念した、という説話に「那須の温泉」が登場する[6]

江戸時代前期には俳人松尾芭蕉殺生石を訪れ塩原温泉郷と並んで那須地域の顔となり、江戸時代後期から明治時代に庶民の間で流行した「温泉番付」では、諸々の番付において東の大関草津温泉に次ぐ東の関脇に位置付けられた[7][8]

太平洋戦争前に鉄道省が出版した「温泉案内」にて那須温泉郷と紹介された。

Author: nihaojapan